探求のパラドックスとは何か?
「探求のパラドックス」は、知識の探求に関する古典的な問題で、プラトンの『メノン』において取り上げられています。この問題は、メノンの問いとしても知られており、以下のように表現されています。
「私たちは知らないものを探求することはできない。なぜなら、私たちが探求するものを知らないのであれば、それを見つけたときにそれが探求していたものであると認識することはできないからだ。一方、私たちは知っているものを探求することもできない。なぜなら、すでにそれを知っているのであれば、探求する必要はないからだ。」 -メノンより引用
この問題は、知識の探求という行為の本質や意味に関する深い疑問を提起しています。プラトンは、この問題を解決するために「再生の理論」を提唱しました。これは、魂が過去の生命で獲得した知識を再生することで新しい知識を得るという考え方です。
「再生の理論」は、プラトンの哲学において中心的な役割を果たす考え方の一つです。この理論は、魂が不滅であり、多くの生命を繰り返し生きるという考えに基づいています。
メノンの作中において、プラトンはイデア論のひらめきを得たのかもしれません。知識は想起することによって得られるというものです。このあたりから、プラトンはかなりイデア論に傾倒していくことになりますが、それはここではおいておきます。ひとまず、探求のパラドックスが何かということは分かったかと思います。
ChatGPT4に聞いてみた
- Q探求のパラドックスを解決することはできるのでしょうか?
- A
このパラドックスに対する解決策は、哲学的な議論の中でさまざまに提案されてきました。プラトン自身は、前世の記憶という考えを導入して、魂が前世で得た知識を再認識することで新しい知識を得るという考え方を示唆しました。これにより、我々は本来知っているものを「思い出す」ことで学ぶという考え方が生まれました。
しかし、このプラトンの解釈は、前世や魂の存在を前提としているため、現代の哲学や科学の観点からは受け入れがたいと感じる人も多いでしょう。
現代の哲学や認識論では、探求の過程自体が知識を形成する手段として重要であるという考え方が一般的です。つまり、完全に知らないものを探求する過程で、関連する知識や情報を組み合わせ、新しい知識や理解を得ることができるという考え方です。
結論として、メノンの探求のパラドックスを完全に「解決」することは難しいかもしれませんが、このパラドックスを通じて知識や学びに関する深い洞察を得ることはできると思います。それぞれの時代や文化において、この問いに対する答えや解釈が変わってくるのも、哲学の魅力の一つでしょう。
経験論的な解決方法が提示されたような気がします。すごく無難というか、まあそうだろうなという回答です。ちょっとこれでは終われないので続けていきます。
無知の自覚を促した後が問題になっている
メノンの話の中で、召使いは最初分かっている「つもり」であったことが、最終的に分からなかったけれども、分かるようになったところが重要になっています。
「一方、私たちは知っているものを探求することもできない。なぜなら、すでにそれを知っているのであれば、探求する必要はないからだ。」
このことはソクラテス自身が解決に導いているように、分かっているようで分かっていないことがあるため、やはり探求を続けていかなければならないことの重要性が示唆されています。しかし、やはり一番最初の問いである、
「私たちは知らないものを探求することはできない。なぜなら、私たちが探求するものを知らないのであれば、それを見つけたときにそれが探求していたものであると認識することはできないからだ。
このことについての回答がなされていない。先述したように、イデア論や想起説ではこれを解決しているとは言い難い。
探求の対象がある場合
例えば、メノンでソクラテスの発言にあるように、対象がメノン自身だったとした場合について。
メノンという人物を知らない人が、メノンが美しいか美しくないか、男であるか女であるか、頭がいいか、悪いかなど様々なことについて知ることはできない。
この場合、探求の対象が人であるため、経験論的に人づてにメノンにたどり着くことができる可能性がある。そのため、探求対象によっては解決可能であるといえる。しかしこの場合、探求対象が経験論でカバーできる範囲のことを指していて、逆を言えば経験論の外にあることに関しては探求できないことを証明してしまっている。
同時にこれは主観性を持った回答でしかなく、「徳とは何か?」といったようなここで主題になっているテーマについての回答は期待できないと言わざるを得ない。主観的に見た「私にとってメノンはこういう人間です」というようなことではなく、万人に共通した「徳」や「メノン」のことを問いているからである。
もはやこれは言語ゲームの一部なのか?
ここまでくると、ウィトゲンシュタインの影がチラついてくる。客観性という言葉が主観性の集合体である以上、言語ゲーム以外の何物でもないといえてしまう。つまり「探求」という言葉の定義とその対象が何であるかがもはや重要であり、パラドックスそのものは言語ゲームでいえばハードウェアが違うことによるソフトウェアのバグみたいな比喩を用いることができるかもしれない。
知らない対象であるXを探求する時、Xとはそもそも何か? 何を指しているのか? ということが織り込まれていない場合、一見言葉が機能しているように見えて、何も機能していないのである。機能しているように感じてしまうことに、我々の問題があるのであって、パラドックスが起きているわけではない
パラドックスを生み出しているのは我々の解釈であり、言葉そのものがパラドックスを生み出しているわけではないのかもしれない。「解釈ができないからパラドックスといっているのだ」という声も聞こえてきそうだが、たしかにそうともいえるし、そうじゃないともいえる。
探求対象が完全に何か分からない時の問題
ここで私の前提は、探求対象が何であるかを規定しているところにある。探求対象が完全に分からない場合のことを指していないのである。つまり、論点がズレているように感じる。しかし、実はそうではない。探求対象が完全に分からない、なんてことはありえないのである。
ウィトゲンシュタインの言葉を借りるなら、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する。」というように、何かしらの言葉を知っているのであれば、探求対象を全く知らないというわけではないのである。すでに、言葉として流用されていて、それが最終的に何かが分からないといっているだけで、何も知らない、聞いたこともないような言葉のことを定義していないといえる。
逆に言えば、全く聞いたこともないような言葉で「ンメリアファ」というものを探求したいと思うと、突然言い出すことはありえないというわけだ。それこそ、その状況であれば探求のパラドックスは意味を成している。誰にも分からないし、探してもおそらく見つかることはない。見つけたとしても、それが「ンメリアファ」かどうかは誰にも分からないからだ。
ソクラテスもメノンもそういった状態、そういった前提においての話をしていない。二人の生活様式や育った環境、言葉の使い方に差異はあっても、探求対象に限界があることがわかるのだ。探求対象に限界がある場合、私が先述したように、パラドックスは起こり得ない。これがパラドックスなような気がするだけなのである。なぜなら、言葉が足りていないことで、脳がその前後を勝手に補完しようとするからだろう。
最後に
あるものをないと回答してしまった気がして、なんだか非常に心苦しい。アポリアに陥った素人の戯言だと思ってくれて構いません。論理学の構造として、メノンの問いに対する、ソクラテスの回答もプラトンの想起説に繋げるための意図が見て取れます。意図的に情報を遮断して質問をしたことで、このような事態を引き起こしたといえるのです。
もしくはプラトンが天才すぎて、凡人である私では到底理解できない超次元的な会話がそこでなされているのか。哲学はそれを学んだ人が、あらゆる見識から1つの問いに向かい合った時に、また別の国の人がその問いに向かい合った時に全く違う答えを導くことが魅力です。
探求のパラドックスの解決策はあるのか?
探求者自身も完全に知らない、聞いたことも見たこともないものであった場合、探求のパラドックスを解決することはできない。しかし、自身もしくは他人が使っている言葉や概念、物質を探求する場合において、このパラドックスは起こり得ない。パラドックスが起きるのは、言語の限界による問題である。万人に共通するような究極の客観性を持った「徳」を探求するのではなく、主観的に定めた「徳」を探求することで、このパラドックスは引き起こされない。
結果的にいえば、解決策はないです。対策ならありそうです。
本当にいいのかこれで……哲学をやると、毎回こういう気持ちが終わりがけにもたげてきて、記事を全部削除したくなるんですよね。でも、これでよしとします。凡人の私の限界でもありますし、この探求のパラドックスにかけてられる時間は今、このくらいが限界です。この個人のつぶやきを最後まで読む人がいるのか。それは誰にもわからない。
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