優れているという評価の哲学的探求

哲学考察

何を持ってして優れているというのか、何を持ってしてこっちが良いとか、悪いなどの評価を下しているのか。また、こうした評価というものがどのような影響を及ぼすのか、このあたりを徹底的に考えてみました。一人ではどうにも煮詰まりそうだったので、chatGPTと対話しながら考えをまとめています。

はじめに

「優れている」という評価は相対的なものであり、主観的な基準に基づいて形成される。この評価は、社会的な意見や共通の認識を形成するプロセスに影響を与えるが、それが真に共通の認識であるかどうかは疑問が残る。「優れている」という言葉は判断の一種であり、判断とは主観によってなされる。

「優れている」ことの判断基準は、常に変動し得えるか?また、その基準は誰が決めるのか?

常に変動し続けるのではないだろうか。それはこの言葉は常に主観的であり、基準は自身が体験及び視覚的に捉えた事象を過去の事象と比べた結果の1つといえる。人はより良い人生を歩むため、最善の選択をしていると考えがちだが、その実のところよく分かっていない。本人が意識したものの結果が伴わなかっただけなのか、結果が伴ったがそれが意識して判断したことなのかについて結論を出すことはできない。

ここで考えるのはあくまで「優れている」という言葉そのものに焦点をあてたい。

優れていると感じる基準について

「優れている」という評価が主観的で変動し得るものであるという前提のもとで、この先を続けていくことにする。個人や社会が「優れている」と感じる基準を形成や変化させる要因は何か、またどのようなプロセスを経て形成されるだろうか。

優れていると感じる基準を形成および変化させる要因は、判断そのものにあるだろう。これは人が何かを評価する時において、評価という行為そのものが何かと何かを比べることなしにできない仕組みの上に成り立っているといえる。この相対的な枠組みの中で判断するがゆえに主観的であるといえるのであり、主観的である以上、判断のプロセスは状況や環境、時々において異なってくる。

評価という行為が基本的に相対的な枠組みの中で行われるという視点は一般的でありながら、大半は意識したことすらないかもしれない。この相対的な枠組みを意識的に変えることで、「優れている」と感じる基準そのものを変えることは可能だろうか。また、それは個人や社会にどのような影響を与えるだろうか?

基準を変えることはできるのか?

優れていると感じる基準そのものは変えられるといえる。相対的な枠組みが違うものになれば、それに引きずられて結果、つまり判断が変わるからだ。今まで評価の外にあったものが、突然評価の中に入ってくることは多々ある。例えば、社会の影響でいえば、かつての蒸気革命がその典型であるといえる。

それまでも蒸気というものはずっと側にあったけれども、これが優れているなどと感じる人はいなかった。しかし、蒸気機関が生み出されてから人はこれを優れていると判断するようになった。このように、相対的な枠組みそのものが変わることで、人の認識は変わる。というよりも、優れていると感じる基準そのものが変わったといえる。

個人レベルの「優れている」について

ここからは、個人レベルで「優れている」と感じる基準を意図的に変えることについて考えていく。これが自身の成長や幸福にどのような影響を与えるか? また、それは推奨される行為と言えるのか。

優れているという意識は相反する影響を個人に及ぼす。これは片方を称賛する一方で、片方を卑下するからだ。この判断はそのつもりがなくても、優れているという言葉を使った時点で無意識に発生する。

自身の成長や幸福として、この言葉を使うことはあまり推奨されないといえるだろう。使う場面も確かにあるが、この言葉は高い依存性を持っているといえる。

まず、自身に優れているという言葉を使う場合、人は傲慢になりがちだ。それは先にあげた影響からも明らかだといえるだろう。そして、仮に自身が他社から優れていると言われれば言われるほど、自己を顧みる機会も減り、傲慢さは増していく。

会社の社長や、時代の中で生きてきた王様などはもれなくこの傾向を宿していたし、権力者はこの権化ともいえる。優れているという言葉はモノに対して優れているかどうかを判断することは有用であっても、人に対してこの言葉は本来使うべきではない。

しかし、人は評価されなければ自身の価値を見出すことが難しいことも分かっている。そのため、優れているという言葉が幸福へ及ぼす影響は大きいといえる。

幸福という観点から言葉を見つめていく

この評価が二元的な視点を持ち込むことで、比較と競争を生み出し、結果として傲慢さや不満を生じさせる可能性がある。誰かを優れているといえば、同時に誰かを優れていないと言っているのだから。人が人に対してそのような判断を下すことに対して、優れていると言われた側も優れていないとされた側も、どちらにも幸福に対して悪影響を及ぼしていると言わざるを得ない。

ここでは幸福がそもそも何なのかについては、あえて言及しない。自身の考える幸福をあてはめてほしい。

また、人が評価を求める性質について触れることで、この問題がさらに複雑になることが理解できるだろう。人は自身の価値を認識するために評価を求めるが、それが同時に不幸や不満を生じさせる可能性があるというのが「優れている」という言葉が単純ではなくなってきていることが分かる。

それでは、このようなダイナミクスを考えると、「優れている」という評価を避け、人々が自身の価値を認識できる他の方法やアプローチはあるのだろうか? また、それらの方法は個人や社会にどのような影響を与えるだろうか?

自己追求と社会

自身の価値を認識する方法は何も評価に頼るものばかりではない。相対評価ではなく、絶対評価なる言葉ではダメなのかと言われそうだ。これはその言葉が意味するよりも非常に難しいことだ。優れているという言葉を使わずに、自身が「優れている」ことを評価しなければならない、つまり言葉のドツボにはまっている。

評価という言葉を使っているがために、それが相対的だろうが絶対的だろうが、言葉そのものの影響でアポリアに陥ってしまう。人が自身の価値を認識するには、自己追求するのがよいのではないだろうか。何もそこに評価はいらない。

例えば、哲学がまさにその典型だ。誰かや何かを卑下することも、優れているかどうかを示唆するものでもない。ただ、ひたらすらに自己を追求する延長線の中に哲学という枠組みがあるだけで、これが正しいとか、間違えているというような評価をするものではない。

ただ、この方法は個人に影響を与えはするものの、現在の哲学人口を見れば、このことがありえないほどマイノリティーの意見であり、現実的ではなく、議論されていないことはよく分かっている。

「優れている」という評価を避け、自己追求を通じて自身の価値を認識する方法が提案される。しかし、現在の社会では自己追求はマイノリティの活動であり、その実現には教育の改革や持続可能な社会の形成が必要とされる。

では何ができるか?

これは難しい問いと言わざるを得ない。おそらく、誰もが挑み、誰もが適切な答えを出せていないのだから。もし、答えが出ているのであれば世界はもっと良くなっているはずだ。

人は自己追求をする必要は厳密にいえばない。自己追求は生きていくという上で、やってもいいし、やらなくてもいいことに分類されている。 このことは、お金を稼ぎ、生活の礎を整えることが第一優先であり、自己は優先順位としては二番目に入っているからだ。

このことが自己追求をすることの難しさを増大させ、影響力を小さなものに閉じ込めているのかもしれない。そのため自己追求している人は社会の中では浮いた存在であり、特異に映っている。有名人だといっているわけではなく、社会的に有名でなくても、誰かにとって、その存在が一般的な視点からみて異質なのだ。

言葉を変えるなら、理解されにくい性質を持っていると言わざるを得ない。 より人々がこの自己追求をするためにできることは、優先順位を変えるために教育や、思想、生活の質、持続可能な社会を形成する必要があるのだろう。

優れているという言葉をやめた社会に何があるだろうか?

教育や思想の変革、そして持続可能な社会の形成が、人々が自己追求を行いやすくする第一歩となるという提案は非常に理にかなっているといえる。しかし、この実現は現実的なところを抑えていない。しかし、仮に実現したとして、人々が自身の内面を探求する時間やリソースを持てるようになり、社会全体がより深い理解と調和を追求できる方向に進むことが可能になったとしたら?

人々の間の関係やコミュニケーションはどのように変わるだろうか? また、それが「優れている」という評価にどのような影響を与えるのだろうか。

平和が訪れる可能性

この社会が実現した時、人は人といがみ合うことはなくなっているのではないかと思います。

平和とは戦争をしていない状態のことを指す言葉ですが、ここでは理想論的な平和という意味で使っています。

優れているという言葉が生み出す格差は人の溝を広げ続けてきた。この溝がなくなるということは、極端なことをいえば、すなわち人と人のいがみ合いがなくなると言い換えられる。つまり、優れているという言葉を人に使わなくなるのではないだろうか。

モノには使い続けるかもしれないが、それは特に大きな影響を及ぼさない。モノは定点観測できるが故に、数字化しやすく、客観的な視点から判断を行いやすいからだ。人はモノではない、人にはそれをするべきではない。人は人が判断できるほど単純ではない。このことに人々が気づいた時、本当の平和が訪れるのではないだろうか。

おわりに

「優れている」という評価の哲学的探求は、個人の自己理解と社会の未来に関連する深い問いを提起した。優れているという言葉は人に使うべき言葉ではない、しかしこれが古代から今まで当たり前のように使われてきた。人はモノではないのに、本来モノに使うべき言葉を人に引用してしまった。

人はこの活動をやめなければ、この先もずっと苦しみ続けることになるだろう。逆に言えば、この言葉を止めた時、真の平和がやってくる可能性がある。この理想論的結論に異を唱える人は多そうだ。私も若干疑問に思うところが多い。しかし、このように締めくくらなければ、あまりいい結末を迎えそうにない。

優れているとは何か? 何を基準に、何と何を比較して、何がどのような点でそうなのか。これをじっくりと考えてみてほしい。そして、考えた暁にはなぜこのようなことを人は考えるのだろうかと考えてみほしい。私は考えてしまったので、これを備忘の意味も込めて記事にすることにした。非常に意義のある時間を過ごせたなと思う反面、特に何の意味もない活動だなと感じる。私がインフルエンサーか何かであれば、これが意味を持つこともあるかもしれない。

しかし重要なのは意味をもたせることではない。これこそが自己追求の核心となる部分だから。私は誰かにとっての「優れている」でなくていい。私が私を正しく認識できていれば、もうそれだけで十分だと思える。社会もこのような枠組みをいつか獲得してほしい。

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