ゲームとは何か? 知っているようで知らない言葉について

哲学考察

ゲームとは何でしょうか? 毎日のように当たり前のように使っている言葉で、多分この言葉の意味は小学生の低学年でも知っているはずです。そのくらい、我々にとってゲームという言葉は身近であり、馴染みの深い言葉であるといえます。しかし、このゲームという言葉の意味を本当に理解していますか? 今日はこのことについて考えてみましょう。

ゲームとは何か?

せっかくなので、哲学的に考察してみます。

ゲームとは哲学的には「制約された自由」の象徴です。

何言ってんだこいつ……って思った人、大丈夫です。あなたは間違えていません。私も書きながら、何言ってんだろって思いましたから。簡単に解説します。

ゲームはルールに従いながら、その中で最も効率的かつ創造的な方法を見つけ出す過程のことを指しているといえます。

まあ、焦らないで。ここまで書いて「なるほど、そうですよね」なんて言う人はほとんどいないと思います。このブログを見ているちょっと変わっている人ですら、多分理解するのは難しいですよね。

一般的な概念でいえばゲームは遊びのことであったり、何かのソフトをゲーム機を通してプレイすることであったり、スポーツの試合のことだったりしますよね。これは言葉の使われ方の部分を指し示しているのであって、ゲームとは何かという本質についての考察にはなっていません。

もっと優しく解説

こういう事例を考えてみましょう。

ソクラテス
ソクラテス

ねえ、君。勇気って何か知ってるかい?

男性A
男性A

え、えっと…はい、知ってます。
例えば戦場で、味方が少なく相手は多い、こういう状態でも果敢に戦うことです。

ソクラテス
ソクラテス

いや、それは勇気の「例」でしょ、勇気が何かについて回答してないですよ。

男性A
男性A

なんだこの人……早く帰ろう

これが上記で解説したことのいい例になっているかなと思います。すなわち、私たちが普段使っているゲームという言葉は自分が使っている用法を指し示しているだけで、ゲームが何かという質問には答えられていないのです。

はい、安心してください。ゲームとは何かと答えられなくても何も問題ありません。むしろ、ゲームとは哲学的には「制約された自由」の象徴です。なんて言うことのほうに問題があるように感じるくらいですから。この記事を通しての狙いは、まさにこうした言葉を考えてみることにあります。

ゲームとは「場」なのか?

ゲームという言葉を考えていく時に、制約された自由の象徴なんて言われてもわかりにくいですよね。ここでは角度を変えて考えてみます。ゲームがどのような形で行われるもので、それが「何」であるかを共通点から探ってみます。

例えば、ゲームにはルールがあります。これはどのようなゲームであろうとも、この言葉を使うからにはルールがあるということが分かります。ルールのないゲームはゲームとは言いにくいですが、稀にそのように使う人がいるのも事実です。しかし、そのような場合は今回は除外して考えます。

特定のルールを守りながら、どうやったら勝てるか、楽しめるかを考えます。ゲームは楽しい時もあり、悲しい時もあり、イライラする時もあります。これはルールがあるからです。つまり「制約された状態」であるといえます。これを言い換えると、ゲームは「制約された場」であると言い換えられます。

こいつは何を言ってるんだと思った人も多いかも知れません。大丈夫です、まだここからが本番です。

「制約された場」だとすると楽しくない

もう言葉がすでに面白くないですが、その感覚のまんまでいきましょう。そのとおりです。制約された場なんていって、連想するのは刑務所だとか、そういう場所をイメージしてしまうでしょう。それだけではないのですが、この場合においては第一印象がたいてい正しいです。

制約された場だけにしてしまうと、言葉として適切とはいえなくなります。

それにゲームとは場です。というと、意味不明もいいところになってしまいますね。ゲームは大抵の場合、現実世界の何かを表しています。しかし、完全に現実世界の何かを表しているわけでもないですよね。例えば、マインスイーパーというゲームは現実の悲惨な側面をゲーム化しているため、これは現実世界の何かを表しているといえます。

現実世界のマインスイーパーのイメージ

しかし、ソリティアはどうでしょうか。これは現実の何かを表しているのでしょうか。知らない人の方がほとんどですし、これを現実の何かと置き換えるのは難しいですよね。

第二の結論として

ここまでを簡潔にまとめると。

ゲームは「模倣と現実の交差点」でもあり、現実世界の問題を縮小形で体験する場でもあります。

このようにいえますね。なんとなく、ここまで来るとゲームとは何か、ということが煮詰まってきているように思います。しかし、ここで重要なことは、ここまでの私の推論は答えではありません。今のところ、最もそれらしいことを書いているように感じているかもしませんが、この論理には穴もあります。

優しく解説します

話を戻しますね。ゲームはよく、本物の世界に似た状況や問題を作り出します。例えば、戦争ゲームでは戦士になりきって戦いますが、本当に戦争に行くわけではありません。これが「模倣」といえます。

一方で、ゲームには勝つための戦略やルールがあります。その中でどう行動するかを考えなければなりません。これは現実世界で問題を解決するのと似ています。だから、ゲームは「現実」にも似ています。

このように、ゲームは「模倣(まねごと)」と「現実(ほんもの)」のちょうど中間に位置していると言えます。だから、「模倣と現実の交差点」と言えるのです。

最終的な結論、ゲームとは何か?

ゲームとは「模倣と現実の交差点」を制約された自由の場として提供し、現実世界の問題を縮小形で体験すること、ないしはその自由の象徴です。

決まった、完全に決まった。

私はそう思いながら、この論理に問題があることを感じ、すごくもどかしい気持ちになっています。でもまあ、いいんです。こんなもんです。哲学することにイラついた時、止めたほうが良いです。野球とかもそうでしょ、やっていて楽しいときは続けて方がいいですが、嫌だなって思った時に続けても結果が出るわけもなく。

まあ、そんなもんです。

この記事を読みながら、自身の考える「ゲーム」とは何か? について、何か少しでも考えの足しになれば幸いです。もしくは、本質を探っていこうとする動きそのものが少しでも伝わればと思います。実際には、文字にすることの難しさを最大限に噛みしめることがこの記事の目的でもありますが。

このことはウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」を学ぶことで、さらに奥深い言葉の深淵への道が開かれると思います。この記事が楽しいと感じた人は、是非上記を学んでみてください。

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