名探偵コナンを代表するセリフからこの記事を書くことを思いつきました。思いつきのままに書きますので、あまりまとまりがない可能性がありますが、タイトルは冗談でもなんでもありません。この記事では認識論や論理学などを含みます。あなたが真実だと思っていることは、果たして本当に真実でしょうか? 少し考えてみましょう。
はじめに:真実に関する哲学的アプローチ
ここでは「真理」ではなく、「真実」であることを重要視しています。何か大きな違いがないように見えるこの2つの言葉ですが大きく違いますので誤解がないようにしておきたいです。まずは以下に哲学的にどのようなアプローチがあるかを見ていきます。
- 対象論 (Ontology): 存在に関する学問で、何が「真実」として存在するかを問います。
- 形而上学 (Metaphysics): 実体や原因、存在、宇宙の本質など、物理的現実を超えた概念を探求する哲学の一分野です。
- 論理学 (Logic): 真実の主張や推論の正当性を評価するための原則や方法論。
- 言語哲学 (Philosophy of Language): 言葉と意味、言語がどのように真実を伝達するかを探究します。
- 存在論的真実 (Ontological Truth): 真実が存在論的な観点からどのように理解されるかに関する概念。
- 相対主義 (Relativism): 真実が文化や個人の視点に依存するとする考え方。
- 実証主義 (Positivism): 科学的方法によってのみ真実が得られるとする哲学的立場。
- 懐疑主義 (Skepticism): 任意の信念や知識、真実に対する確信を疑う立場。
私も全てに詳しいわけではないので、すべてを解説することはできませんが、大まかな概要は掴めたかと思います。これらの言葉を初めて聞いたという人にとって、この記事が難しくなりすぎないようにある程度噛み砕いて、わかりやすくします。
自分の真実と他者の真実
まずは真実という言葉を考えるところから始めていきます。私はどちらかというと言語哲学的なアプローチを得意としているので、これが一番わかりやすいと思います。
一般的な解説
一般的に、「真実」とは、実際のところであるか、または実際に起こったことを指します。事実や現実に基づく情報や主張を意味し、誤りや偽りがない状態を示します。日常生活では、真実は信頼性の高い情報、確認された事実、または一般に受け入れられている実態として理解されます。
ChatGPT4の回答
哲学的解説
哲学においては、「真実」はより複雑で多面的な概念です。
対応理論によると真実は、ある主張や信念が現実の状態と一致する場合に成立するという考え。つまり、事実や実在するものに「対応」するとき、その主張は真実とされます。対応理論はおそらく、大半の人がこの言葉を知らないままで、この理解をしていると思われる理論になります。
例えば、次のような文があるとします。「東京タワーは高さ333メートルである」
この文が真実であるかどうかを判断するために、対応理論では以下のステップを踏みます。まず、東京タワーの実際の高さを確認します。これは、測定や公的な記録に基づく事実の確認を意味します。次に、上記の文が指摘する内容(東京タワーの高さが333メートルであるという主張)を実際の状況と比較します。もし実際の東京タワーの高さが333メートルであれば、この文の主張は実際の状況に「対応」しているとみなされ、したがって真実とされます。
このように、対応理論は主張や信念が現実の状態や事実とどの程度一致するかを基準にして真実を判断します。この理論によれば、真実は客観的な現実に基づくものと見なされ、個人の主観や感情からは独立しています。
一貫性理論では、真実は一つの体系内の他の信念との一貫性によって定義されると考えます。つまり、ある信念が既存の信念のネットワークと矛盾しない場合、それは真実であるとされます。アインシュタインの相対性理論が確立されて、ニュートンの理論ではなし得なかった事実体系を生み出し、現時点においては強い一貫性を保っているため真実とみなされるという具合です。
プラグマティズム での真実は、実践的な結果や有用性に基づいて定義されるという視点。この理論では、ある信念が有益であれば、それが真実であると考えられます。プラグマティズムにおいては、理論や信念が実際の経験や行動に有益な影響を与えることが、その真実性の指標となります。信念が現実世界において実用的である場合、それは真実であると見なされるのです。この哲学的視点は、理論の真実性を単に理論内部の一貫性や事実との一致ではなく、より実践的な観点から評価します。
哲学的な文脈では、真実は単に事実や現実を指す以上のものであり、その理解は理論や哲学的な枠組みによって異なります。哲学者たちは、真実の本質、それを知る方法、そしてそれがどのように人間の理解や世界観に影響を与えるかについて、深く探究しています。
人は真実を決める生き物である
真実が人を決めるのではなく、人が真実を決めているといえます。例えば、ダーウィンのような人物がう見出した理論はプラグマティズムであり、対応理論ではないのです。科学的に見て、という方向を推察する人もいるかもしれません、そのためダーウィンの進化論などは一貫性理論だという議論もありますが、実際のところは誰にも分からないのです。
この、誰にも真実はわからないという視点が何より重要になります。
科学で証明されたことは事実である、という理解は誤っているということを示唆しています。科学は真実ではなく、事実を解き明かすことができるものです。これはものすごく簡単な例に頼れば、宇宙について科学的に語る時、宇宙が膨張しているとか、多元宇宙理論などについても、誰もわからないのですが、それがもっともらしい評価を得る時、事実に変わってしまいます。
かつて、天動説が支持されていて、その後に地動説に変わったように人はプラグマティズム的な傾向が非常に強いのです。「1+1=2」という事象も信じて疑わなければそれは真実となります。数学的な証明がされた、誰が見ても間違いのない回答と考えてしまうわけです。
つまりこのことからも、人は真実を決めているといえます。
真実はひとつどころか、人の数だけある
真実という言葉は信念や信仰という言葉に非常に強い結びつきがあります。すべてにおいて結びつきがあるわけではないのですが、切っても切り離せない部分があるのです。なぜかといえば、実際に起こったこと、そのものがすでに疑わしいからです。懐疑主義的な見方をしているから、というわけではなく、事実というのものがすでに疑わしいのです。
例えば、とある男性Aが女性Bを刃物で刺したとします。
これを目撃したCは男性Aが女性Bを刃物で刺したという事実を目撃したことによって、このCにとってはこれが真実になります。しかし、実際には女性Bが最初に刃物を持っていて、もみ合いの末に男性Aが刃物を奪い取り、女性Bを刺していたとします。この時、前提が抜け落ちているCは男性Aが犯罪者であり、女性を刺したという事実だけが残ってしまうというわけです。
このように例をあげればキリがないですが概ねこのように私達が見ている事象というのは全てにおいて非常に疑わしいのです。真実は人の数だけ存在するといえる理由がこのあたりからも理解できるかと思います。
おわりに
とても難解なテーマを噛み砕いてみたのですが、噛み砕きすぎたかもしれません。思いつきのままに書くとこうなる、という典型のような記事になりました。まあ、それもいいでしょう。
この記事を通して何が言いたかったのかというと、何を真実とするかは自分次第であるということです。それが自分にとってそうである以上、他者が何かそのことについて言及することは本来的にはできないのです。しかし、人はなぜか真実であると信じて疑わない状態になった時、他者を間違えていると考えるようになります。そして、他者にその真実を強要してしまうのです。
人が自らの信念で貫いた真実については、先述した通りですが、他者の誰かに強要されたり、誘導された真実はもはやその人にとっての真実ではありません。よく考えて出した結果は自分しか信じてあげることができず、またそれを信じることでしか真実であると考えることもできないわけです。
人はこの土台の上に生活をしているため、非常に不安定で、左にいったり右にいったりフラフラしがちです。しかし、ここに不安を覚えるのではなく、そのような生き物であると理解すること、理解した上で自分なりに考えようとすることが哲学の目的であるといえるわけです。
真実というテーマは非常に深淵で、難解なためにとっかかりがなければ普通はこの記事を読もうとすら思わないでしょう。はじめにで書いた内容のところで、99%の人はブラウザバックしていると思います。最後まで読んだあなたには真実を理解しようとする気概があるということで、私と仲良くなれそうな気がします。ただ、やはりあなたと私の真実は異なり、ここが完全に一緒になるということは現時点では難しいかもしれませんね。
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