人は何かが良いだとか、好きだとか、推しだとかの言葉を使って自身の指向を表現します。スイカが好きだとか、アイドルが好きだとか、様々かと思います。しかし、これらの表現は他者にほとんど伝わっていません。自分が何かを好きだという感覚はどれほどのものであるのか、他者は言葉だけでは理解することができないのです。今回はそんな言葉が引き起こす問題について考えていきます。
「りんごが好き」という言葉について
私はりんごが好きです。これだけ聞くと、大抵の人は「ふーん、そうなんだ」と感じるでしょう。もし自分もりんごが好きだった場合、分かる分かると頷きながら聞くかもしれません。りんごが嫌いな人の場合、こいつは何を言ってるんだと思うかもしれませんね。この文脈だけでは、私がどれほどりんごが好きかを知り得ることは決してできません。
- 私はりんごが大好きです
- 私はりんごしか食べません
- 私の主食はりんごです
簡単に上記3つの違いを見た時、それぞれ人が感じる印象は大きく変わります。最初の例でいえば、かなり好きなんだなということが分かります。「大」という修飾が入るだけで全く違いますね。2つめについては、これはもう好きというより、完全にりんごに狂っているか、なにか別の事情があるのではと考えてしまうかもしれません。3つめについては、これも同じようにりんごが好きという事態を超えているかもしれません。
では、ここで私が全力でりんごが好きであることを表現しようと思います。
果物の中で何が一番好きかと聞かれたら、私は一瞬の間もおかずに「りんご」と答えます
はい、これで私がりんごが好きなことがほぼ確実に伝わったと思います。どうでしょうか? この文章を読んだ時、私がりんごが好きでたまらない人だと思いませんでしたか? でも実際のところ、そうでもないんです。
言葉を正確に理解できない原因
日本語を知っている人ならば、先程の文章を読めばたいてい同じ理解にたどり着くはずです。しかし、なぜそうでもないと書いたのか。これは私がひねくれているからではないです。言葉があまりにも自身の箱に依存しているからです。何を言っているのかわからない人のために、わかりやすく解説していきます。
例えば、馬という言葉があります。馬を知っていますね?
はい、これです。この馬、実は100人いたら100人とも違う馬を想像しています。何が言いたいのかというと、「馬」という言葉を聞いて人は一瞬で脳内で情報の検索をし、一瞬で答えをイメージ付きで生成できます。今流行りの生成AIと原理は全く同じです。
この時、自身の経験や知識が豊富であればあるほど、演算結果に大きな違いが出てきます。例えば、生まれたこの方、白い馬しか見たことがない人は、馬と聞けば「白い馬」を連想します。競馬が好きな人は「色とりどりの競走馬」を連想します。特に馬に興味がない人はさきほどの黒のシルエットのように馬を連想する人も多いかもしれません。よほど詳しい人でない限り、馬のディテールを知っている人はいません。
はい、これはロバです。違いが分かりますか? 知らない人にとってみれば、これは馬です。言葉遊びをしているのではないです。そろそろ本筋に戻ろうと思います。
対象がモノの場合と概念の場合
仮に自分が想像したものがロバであってもポニーであっても、馬と言われて大抵の人は同じものを想像しますし、そのまま馬の話ができるでしょう。「私は馬が好き」だとして、競馬が好きなのかな? など、勝手な連想をするのが人です。この連想がつまり、逆手になって悪い影響を及ぼすわけです。
言葉が連想しにくい概念だった場合、人によって生成するイメージは全く異なるのです。先程の「りんごが好き」という部分において、「りんご」は誰でも簡単に連想できます。色が赤いか緑かくらいの違いはあっても同じりんごですから、話はそこまで逸れません。
しかし、その後の「好き」という事態はまるで違います。これは何を言わんとしているのか、その程度や感覚は人によって全く違います。つまり、言葉の連想によって人は「自身の情報検索エンジンで高速処理された結果を見て」対応するのです。
誤解だらけの世界
つまり、私がどれだけりんごが好きなのかは、いくら言葉を修飾したり、文章をわかりやすくしても理解不能だということです。もっと簡単にいえば、りんごは好きですらない可能性すらあります。それなのに、仮に自分がりんご好きだった場合、「分かる、りんごって美味しいよね」なんて言ってしまったりするわけです。この、分かるというのは何もわかっていません。わかっているのは、自分がりんご好きだという事実のみです。
人はこのように言葉の連想により激しく誤解する生き物です。むしろ、誤解なくしてコミュニケーションをと呼ばれるものは成り立ちません。コミュニケーションが上手だとか下手だとかいわれる社会ではありますが、本当はそのようなものはありません。コミュニケーションが上手な人は簡単にいえば、わかったようなフリをするのが上手なのであって、理解力が高いわけではないです。
私がひねくれているからそのようなことを言っているわけではないですよ。
コミュニケーションが下手だと言われる人は、単純に考えれば「自身の情報検索エンジンに問題がある」可能性はあっても、理解力が足りないわけではないのです。言葉はそもそも誤解の上に成り立っているからです。
自身の情報検索エンジン
これはわかりやすい表現を使ったつもりですが、一部の人には余計分かりにくくなったことかと思います。これはもうしょうがないことです。しかし、しょうがないで済ませないので、簡単に解説します。
- Yahoo
- Bing
まあ、これだけ書けばおそらくどれかはヒットするでしょう。これらは情報検索エンジンと呼ばれています。ここで知りたい言葉を検索したら結果が返ってきますよね。それと同じで自分の頭の中も同じような状態になっているというわけです。それも、目にも止まらぬほど高速で処理されるので、一見すると考えたり止まったりする時間がないために、想像がつきにくいだけです。
目や耳で捉えた事象は脳内のフィルターを通して初めて反応となって返ってきます。しかし、この情報検索エンジンの情報が欠落していたり、間違えていたりしても、それを理解するのには時間がかかります。ましてや、他人の検索エンジンは決して見ることができないという始末なわけです。
人と人は分かりあえるか?
仮に同じ言葉を話す人同士であれば、分かりあえる可能性はぐっと高まります。高まりこそすれど、やはり立っている土台が誤解であることは絶対に理解しようとする意思がいります。理解することは決してできません、理解しようとすることならできるわけです。
このような前提に立っていなければ、人と人は分かりあえません。つまり、良いパートナーや友人というのはこの前提がクリアできていることを意味しています。そして、これからも長い付き合いができるかどうかはこの前提をどこまで忘れずに続けられるかにかかっているでしょう。
同じ言葉を話す人ですら、この始末なわけです。異国の言葉を話す人を理解しようとするなら、それは大変な労力を伴います。つまり世界に暴力ではなく、言葉による平和をもたらそうとするのであれば、先述した前提に立つ必要があるわけですね。誤解したまま、わかったつもりでいることが間違いだとか悪いだとは言っていません。ですが、どちらが良いかと問われたら、私は誤解なく相手と接していきたいと思うわけです。
私はりんごがそんなに好きではありません。
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